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蕎麦~江戸蕎麦文化の発祥

蕎麦の歴史・日本への伝来

蕎麦は、寿司、天ぷら、鰻とともに、江戸四大料理と呼ばれています。

しかし、蕎麦の歴史とは、意外なものでした。

ソバ(蕎麦)はタデ科の一年草。

原産地は、東アジア北部、アムール州の上流沿岸から中国北東部にわたる一帯とされていますが、
近年、中国西南部山岳地帯の雲貴高原(雲南省)だと言う説が有力視されています。

現代の栽培は、アジア内陸部、ヨーロッパ各地、南ヨーロッパの山岳地帯、南北アメリカ等となっています。

日本への伝来に関しては諸説ありまして、
①朝鮮半島から対馬~壱岐~北九州 ②シベリアから北日本(東北) ③中国から九州 等が考えられている主なルートです。

そして、原産地が中国西南部山岳地帯とするならば、稲の伝来と同じルートを辿ったという見方が浮上しました。

※稲の伝来は、中国~日本~朝鮮半島。
日本での稲作開始が朝鮮半島での開始時期より遥かに古いことが日中両国の研究機関で結論付けられています。

いずれにしても日本への伝来は古いもので、縄文時代には既に栽培が始まっていたとされていて、
蕎麦の種子が埼玉県岩槻市の真福寺泥炭層遺跡(B.C.900~500年)から出土したことで明らかになっています。

また、最近の考古学的研究の成果では、ソバの花粉が高知県佐川町の地層から見つかり、
縄文時代草創期(約9300年前)には既に栽培されていたのではないか、という推定も成り立っています。

“そば”と“そばきり”

722年、「救荒作物として蕎麦を植えなさい」という詔が天正天皇(女帝)によって発せられたとう説があります。

時代は奈良時代初期。

国土の開発、制度の整備、唐や朝鮮との交流、仏教の興隆などにつれて日本の文化や芸術が大きく開花する、我が国の基礎が形成される律令国家完成の時期になります。

この蕎麦が今の蕎麦と同じであれば、日本最古の蕎麦の記述となり、まさに「1300年の歴史を持つ日本伝統の食材」と言うことができます。

平安時代(794年~1192年)には、
「曾波牟岐(蕎麦/そばむぎ)」とか「久呂無木(くろむぎ)」と呼ばれていたという記述があります。

この当時は、都の上流階級である貴族や僧侶には、そばは食べ物という認識がなかったようで、
農民が、米か麦が食べられない事態に備えた雑穀だったとされています。

蕎麦という漢字表記は、南北朝時代(1336年~1392年)に入ってからとなり、
蕎麦粥、蕎麦練り・蕎麦掻き、蕎麦焼きとして食べられていた時代が続きます。

太閤秀吉も蕎麦掻や蕎麦掻餅(そばかいもち)を好んだという記録もあるようです。

そして、16世紀後半または17世紀初頭(1600年前後)に生まれたといわれている調理法が、
現代で蕎麦と認識されている蕎麦切り(そばきり)です。

こうなると、蕎麦切りの発祥地を知りたくなりませんか?

蕎麦切りの記述が確認できる最も古い文献では、
1574年長野県木曽郡大桑村須原にある定勝寺の建物修復工事完成に際しての寄進物一覧の中で
ソハキリ(蕎麦切り)が存在していたことが確認されています。

また、地域としては、中山道本山宿(現在の長野県塩尻市宗賀本山地区)という説と、
甲斐国の天目山栖雲寺(現在の山梨県甲州市大和町)説があるようですが、
いずれにしても、米や麦の栽培に適した水源がある平地が続く地域ではないことは確かですね。

蕎麦切りの普及

蕎麦切りという形態が確立されて以降、江戸時代になると、いくつかの文献で明確にその発展状況が把握できます。

江戸時代初期には、寺方蕎麦(てらかたそば)なる表現が記録されています。

そばは、五穀『米、麦、粟(あわ)、豆、黍(きび)または稗(ひえ)』に含まれていないので、
五穀断ちといった荒行をする僧侶にとって、そばは重要な栄養源となっていたそうです。

寺方蕎麦に関する一番古い記録としては、1614年(慶長19年)に江戸の常明寺でそば切りが振舞われたと記されています。

ひとつは、
「多賀大社の社僧が書いた慈性日記の慶長19年2月3日の条に
『常明寺へ行き、町の風呂(銭湯)に行ったが混んでいたので戻って、ソバキリを振る舞われた。』というもの。

また、
「蕎麦の事典(新島繁編著)」においても「・・常明寺でそば切りの馳走になったという内容」だとしている。

これには異論があって、
江戸には常明寺という寺院が存在しておらず、
最近の蕎麦の研究諸文献には、「幻の常明寺」とさえ表現されるようになりました。

蕎麦切りは、
保科正之の高遠そば、仙石政明の出石そば、本山宿における大名への献上記録、諸大名から将軍家に献上された品のリスト武鑑の記録などから
身分の高い人物でも食べるものになっていたことがうかがえます。

1782年(天明2年)10代将軍徳川家治の時代には、大成武鑑に、
信濃国3藩、上野国3藩、武蔵国、下野国、出羽国の9家から蕎麦が献上されたと記されています。

出典:Wikipedia

江戸時代のレシピに蕎麦切り登場

江戸時代以前にも、料理書が存在していましたが、儀式料理のレシピや作法が中心だったそうです。

蕎麦切りが登場したのは、1643年(寛永20年)に書かれた料理書「料理物語」。
饂飩(うどん)、切麦(現在では冷麦として継承)などと並んで蕎麦切りの製法が載っていて、
日常的な食べ物として普及。定着していった様子が浮かびます。

江戸時代の中頃、
そばの愛好家だった日新舎友蕎子という人が書いた「蕎麦全書」には、
自家製のそば汁の作り方が書かれています。

このレシピよると、

醤油一升、上等の酒4合、水4合、以上を合わせて、
とろ火で1時間煮込む。

これだけだけだとか。

本にも書いてある通り、味は大変塩辛いものになるようで、
これに好みに応じて、大根の絞り汁を大量に入れて、そばを手繰ったと言われています。

蕎麦屋と蕎麦前 蕎麦の文化は江戸時代に始まりました/

商売としての蕎麦屋は、江戸時代中期ごろから見られる形態で、
会席料理屋や鰻屋に比べると安価で庶民的とされていました。

文政年間に調査した「江戸町方書上」の中に三軒の蕎麦屋が出ているそうです。
『正直蕎麦』『山中屋』『太田屋』いずれも江戸前期寛永年間(1624年~1643年)辺りに創業したとあります。
江戸時代に入ると政情も安定して、こういう店も出てくるようになったのでしょう。

『正直蕎麦』は浅草寺境内に戸板にそば椀を並べて商売していたそうです。
値段が安くて量が多いので正直の評判をとったとか、他の店は混ぜ物をしていたが『正直蕎麦』は生蕎麦(十割蕎麦)を出していたので『正直』と付いたとか言われているようです。
元の名は『伊勢や』だったようです。通称が屋号になったのでしょう。
出典:『蕎麦年代記』 新島繁著

江戸では蕎麦が好まれていたため蕎麦屋が多く見受けられ、
関東大震災以前は各町内に一、二軒の蕎麦屋があるのが当たり前だったと言われています。

また、屋台形式の蕎麦屋は江戸時代後期になって登場し一気に普及していきました。

「けんどん屋」という呼ばれ方もありました。

「けんどん屋」は、江戸時代のそば屋の異称で、駄そば屋の意味で使われたそうです。
1664年(1662年とも)に「けんどんそば切」として書物に出てくるとか。
「けんどん」とは・・・「突っけんどん」という言葉がありますが、その下の部分を使ったようです。
「慳貪(けんどん)」は思いやりのないこと。愛想のないこと。あらっぽいこと。また、そのさま。つっけんどん。
愛想の無い蕎麦屋があったとも想像できます。
「蕎麦屋」という名前が通用しはじめたのはその後の事のようですね。

出典:『改定新版 蕎麦辞典』 植原路郎著中村綾子改定編集

【蕎麦前】

江戸の時代から蕎麦屋は手軽に酒が飲める場所として繁盛したそうですが、
居酒屋と違って酒肴(つまみ)がシンプルで種類も多くない。

このために、酒を吟味して酒そのもののうまさで勝負するという売り方が伝統になったと伝えられています。

そして、長居をしないで、〆にそばを手繰る。
蕎麦屋の粋な嗜み方が、現在にも継承されています。

【蕎麦~江戸蕎麦文化の発祥|ぶらり探訪GNH358】
蕎麦の歴史・日本への伝来、“そば”はいつから蕎麦、蕎麦切りの普及、江戸時代のレシピに蕎麦切り登場、蕎麦屋と蕎麦前 蕎麦の文化は江戸時代に始まりました
初稿:2018年5月18日
最新更新日:2018年12月10日

江戸蕎麦三大系譜~藪、更科、砂場

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