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蕎麦

練馬田中屋:伝説の名店創業者 田中國安の偉業

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「これからは手打ちそばの時代が来る」「天ぷらを制する者は蕎麦屋を制する」田中國安

練馬田中屋:伝説の名店創業者 田中國安の偉業

東京・練馬の「田中屋」、かつて東京駅でタクシーの運転手に店名を告げれば通じたというほど、東京で一番と評判の蕎麦屋でした。

創業者の田中國安は、そばや天ぷらなどの認識を変えさせる「伝説」のお店を作り上げた蕎麦職人として全国に名を馳せたその人。

町なかの蕎麦屋を開業後、時代を読む力により、
「これからは手打ちそばの時代が来る」との直感で、自ら老舗蕎麦屋の「巴町砂場」の主人に指南を受けました。
※巴町砂場 砂場蕎麦(すなばそば):江戸三大蕎麦

さらに、「天ぷらを制する者は蕎麦屋を制する」と、
天ぷらがおいしい蕎麦屋は繁盛していたため、天ぷらにも力を入れました。
蕎麦屋の天だねに、“車海老の天ぷら”を採り入れたのは田中屋が最初で、売れに売れたそうです。

昭和48年3月宇都宮「一茶庵」で修行を始めて、修行のかたわら片倉康雄のそば教室の師範代を務め、
昭和50年12月東京都豊島区南長崎に「翁」を開店した、翁達磨高橋邦弘も一目を置いていたといわれています。

2018年6月現在93歳、今後もこの業界で指導的な立場でいてもらいたい、という関係者が少なくありません。

富山県出身。
戦後間もない頃上京、米販売、配給ゆで麺屋、運送屋を経て、練馬区豊玉中に店を構えました。

「田中屋」「練馬田中屋」の歩み

昭和33年、茹で麺屋をやっていた友人から買い受けた店で20席ほどの小さな蕎麦屋を開業。

蕎麦といえば機械打ちが主流の時代。
当初は、自分で蕎麦を作り、舗装されていない泥だらけの道を出前していたとか。

その頃、釜の燃料が石炭からガス釜への変換期で、ガス釜を見学に行った店で手打ちをやっていました。
「これからは手打ちそばの時代が来る」との直感で、見学に行った店には弟子を修業に出し、自らも老舗蕎麦屋の「巴町砂場」で手打ちそばの指南を受け、手打ちそばの先駆けとなります。

手打ちを選んだのは、田中屋のお客さん。

機械打ちとともに、手打ち二八蕎麦10円高く出してみたら、皆さん手打ちを注文。
こうして、お客さんに選ばれる“手打ち”に、全部切り替えたそうです。

そして、「天ぷらを制する者は蕎麦屋を制する」、
天ぷらがおいしい蕎麦屋は繁盛していたため、天ぷらにも力を入れました。

天ぷら担当は奥さんで、田中國安氏は「女房が揚げる天ぷらは、絶品と言われていたんですよ」と回想しています。

こうした努力のおかげで、手打ち蕎麦の評判は評判を呼び、遠方からもお客さんがやってくる人気店となります。

転機となったのは、昭和39年。
東京オリンピック道路整備で環七通り(東京都道環状七号線)の開通を機に、隣接地3軒分60坪の土地を購入。
2階席を含めて100席超、駐車場22台分を有する陣容を構えるに至りました。

『しめられたセイロが清らか』
『華のある車海老の天麩羅が上品』
庶民が普段使いで通える蕎麦屋とはかけ離れた発想で、マイセン、ジノリ、九谷焼の作家須田菁華の陶器、そして、せいろは「藤八屋」の輪島塗を使用。
1つ3万円ほどする品を300個ぐらい揃えて、高級店の先駆けとなりました。

最盛期には、環七通りに面した22台分の駐車場がベンツなどの高級車で埋め尽くされる光景も珍しくないほどの人気店になっていきます。

練馬区豊玉中にあった練馬の「田中屋」の外観(昭和55年頃撮影:田中さん提供)
出典:シニアナビねりま

所在地=東京都練馬区豊玉中2-12-6

著名人常連客

俳優:高倉健・・・東映の大泉撮影所の帰りに、よく立ち寄り、紳士的だったとか。
※東映大泉撮影所から練馬田中屋までは、目白通りを経由してほど近い距離。

昭和40年代には巨人軍の王貞治やコーチ、選手の皆さんが連れ立って来店。

相撲の元大関・貴乃花親方夫妻と若貴兄弟。
※藤島部屋~二子山部屋があった中野新橋から練馬田中屋までは、青梅街道・環七通りを経由してほど近い距離。

ホンダの創業者の本田宗一郎氏、中曽根元総理など…贔屓(ひいき)にしていた著名人多数。

店内の書 「人間万事塞翁が馬」

従業員には「色紙をもらってはいけない」と徹底して言い聞かせていたと田中國安だが、
テレビドラマ「いじわるばあさん」(日本テレビ系列 昭和42年9月~昭和43年9月放送)で店が舞台になった時に、青島幸男が書いた「人間万事塞翁が馬」だけは例外。

後述する、「たなか」店内でも飾られていました。

店名の変遷

「田中屋」 ~ 「練馬田中屋」 ※平成8年田中國安氏引退

「名月庵田中屋」への店名変更、経営譲渡年月と詳細は不明。※推定年月:後述の「玄蕎麦野中」参照。

「たなか」開店

平成10年、蕎麦打ちを教えてほしいというお孫さんのために、東京都西東京市ひばりが丘の自宅でそば打ち再開。
蕎麦界伝説の巨匠の隠居店とも称された「たなか」開店。

「絞り込まれたメニューで、絶品のかけそばを含めて上質なレベルのそばや料理を、リーズナブルな価格で提供されていました。
昭和時代の練馬の高級路線とは対極のコンセプトでしたが、酒を提供しないことや素晴らしい器使いなど、一人の人間としての田中さんの集大成的な
お店だったと私は感じているところです。」
出典:一茶庵手打ちそば・うどん教室 > 片倉英統のブログ


たなか外観:出典:一茶庵一茶庵手打ちそば・うどん教室 > 片倉英統のブログ


御膳せいろ:出典:一茶庵一茶庵手打ちそば・うどん教室 > 片倉英統のブログ

<お品書き>
せいろ・かけ…各500円
そばがき…1,000円
釜揚げうどん…600円
海老天ぷら・野菜天ぷら…各600円
自家製玉子焼き…400円
そばがきぜんざい…600円
大納言ブランデー漬け・自家製シャーベット…各400円

※お品書きは、平成26(2014)年2月現在。

「たなか」は、平成30年6月30日に閉店しました。

田中國安の蕎麦屋考

「大切なのは、そばが4割、つゆが6割。そばがまずくても、つゆが美味しければ食べられますが、そばが美味しくても、つゆがまずければ食べられない。ですからうちの店では、もりそば、かけそば、釜揚げうどん、それぞれを引き立てるつゆの味にこだわって、出汁はすべて違うんです」(本人談)

また、味を追求するのはもちろんのこと、器も良いものを使わなければいけないというのが田中國安の信条。

「たなか」では、京都「たる源」の桶や、「須田菁華」(魯山人は初代須田菁華に学ぶ)の器を惜しみなく使っていました。
「こんな高級品を使っている蕎麦屋は他にはないと言われていますよ(笑)」(本人談)

出典:シニアナビねりま あの人は今〜環七・蕎麦の名店 練馬の「田中屋」〜

田中國安の系譜

弟子筋は100名以上。竹やぶの阿部孝雄は、田中国安の下で手打ちを覚えました。

来る者拒まずで、短期で習いに来る人も多かったそうですが、

「景気のいい時代ならともかく、この厳しい世の中で店を続けるのは簡単じゃない。結局、何年もたたないうちに、店を閉じてしまいました。蕎麦屋の仕事は甘くない。」と語っています。

「練馬 田中屋」で修業

*竹やぶ 柏本店(千葉県柏市柏1144-2)1967年12月開業
*もろやま 田中屋(埼玉県入間郡毛呂山町岩井西5-5-18)
*秩父 田中屋
*瀧森(千葉県市川市南八幡4-17-4)
*旭庵(千葉県我孫子市天王台2-3-40)
*蕎麦の膳 芝甲(埼玉県北葛飾郡杉戸町清地2-7-15)
*玄蕎麦 野中(東京都練馬区中村2-5-11)1992年「中村 田中屋」として開業。
>>田中屋の経営者が変わり「明月庵」が冠された後の2002年『玄蕎麦 野中』に店名変更。
⇒ 玄蕎麦 野中 -中村橋:蟻巣(アリス)の田舎蕎麦、1日10食限定
*手繰りや 玄治(東京都東村山市栄町2-38-2)

「たなか」で修業

*玄蕎麦 もち月(東京都町田市小川2-3-23)

 

『練馬田中屋:伝説の名店・創業者田中國安の偉業 GNH358』
出典一覧
*一茶庵手打ちそば・うどん教室>片倉英統のブログ>そば「たなか」6/30をもって閉店・・・
*シニアナビねりま>サポーター体験記>あの人は今?〜環七・蕎麦の名店 練馬の「田中屋」〜
*そば・うどん業界.com>そば・うどん散歩「創業のそば・うどん店」

参照
*巴町砂場 砂場蕎麦(すなばそば):江戸三大蕎麦
*竹やぶ 竹やぶ:新しい蕎麦職人の領域を創造した阿部孝雄の系譜

初稿:2014年2月22日
最新更新日:2018年10月19日

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